熱が出ることも、頭が痛くなることもなく。
喉が痛いだなんて感覚もないままに、わたしは風邪を引いたらしかった。




   伝えたい、キモチ。




ピピピ、と小さな音を立てて体温計が表示した温度は、まったくの平熱。
それを見た母も「おかしいわねぇ」なんて言って首を傾げる。


あんた、何かしたの?
さあ。


無言でされる会話。
仲が悪いわけではない。声が出ないだけなのだ。
しかも、喉も痛くないのに、である。



「休む?」
平気。
「でも悪化したら大変だしね、休む連絡入れておくから」
お母さん、聞いた意味ないじゃない。



言葉のキャッチボールが成立しないその会話は、なんだか落ち着かない。
片側から投げられるだけの言葉と、ボールの投げ方を忘れてしまったかのようなわたし。
奇妙なそれは、いつもはちょっと騒がしい我が家を静寂へと変えてしまっていた。

「とりあえず寝てなさい、お母さんが帰ってきても治ってなかったら病院連れていくから」

仕事もあるのに、大変なことだ。
あたふたと出かける用意をする母を見ながら、そんなことを思う余裕はあったりする。
いってきます、という声に、いってらっしゃい、と答えを返すことも出来ず、
わたしは静かな家にひとり取り残されてしまった。







…なんだか、淋しいな。
いつもよりちょっと大きな音で好きな曲を流しながら、わたしは小さく息を吐く。
普段なら、曲に合わせて口ずさんだりするというのに。


ひとりでお昼ご飯を作って、ひとりで食べる。
少し騒々しいほどの大きさで流れてきたメロディーに、ふと思い浮かぶ顔。




あ。この曲、赤也の好きな曲じゃない。
そういえば赤也、どうしてるかな。


朝から放置していた携帯電話を開く。
すると、やっぱりというべきか何というべきか…赤也からメールが来ていた。





カゼだって?大丈夫か?




それだけ。
だけど、なんだか嬉しい。
ちょっと笑って、指先で文字を紡ぐ。




熱が出たりとかじゃないんだけど、声が出ないんだよね。


声出ねぇの?そんだけ?


そう。声は全然出ない。独り言も言えない(笑)


逆にすげー!
学校終わったら行くけど、なんか欲しいモンあるか?




その返信を見て、驚いてしまった。
え、来るの?何も会話出来ないのに?
思ったことをそのまま文字にしてみたら、「当たり前じゃん」と返ってきてまた驚いた。
会話が出来なくても、彼は会いに来てくれるらしい。




欲しいモンは?


特にないよ、ありがとう。


なんだよー。んじゃ、適当に持ってくからな!




結局メールはそれきりで、わたしは少しどきどきしながら放課後を待った。








「ことばって、大事だと思う?」

そんな問いかけを赤也にしたのは、わたしたちが付き合い始めた頃だっただろうか。

「大事じゃねぇ?だって言葉がなきゃ、何考えてるかとか分からねーじゃん」
「…そっか」
「なんだよ、突然」
「ちょっと思っただけだよ、気にしないで」
「…んじゃ、はどうなんだよ」


問われて、考える。


「…すごく大事って訳じゃ、ないと思う」
伝えたい感情は、言葉にしなくても伝わるんじゃないかな。
そんなことを言ったら、赤也はわかったような、わからないような表情をしていたっけ。



あれから時間が経って、お互いに思ったことを言葉にしないことが増えて。
そのくせして、へたなことを口にしたりして、その度に言い争いになったり。
「何考えてるのかわからない」「言葉が足りない」なんて喧嘩をすることも増えた。


やっぱりわたしは、言葉はさして大事じゃないと思うんだ。
だって、…








ピンポーン。


どこからかチャイムの音がして、ああわたし寝てたんだ、とぼんやり思いながら意識を浮上させる。
時計を見れば、そろそろ赤也の来る時間だった。
ドアを開けると、思った通り彼が満面の笑みで立っていた。
…なんでそんな笑顔なの。


「よっ、。思ったより元気そうじゃん」
だから、別に風邪っぽい症状がある訳じゃないんだってば。
「…本当に喋れねーんだな…」
そう、喋れないだけなの。
「あ、これお見舞い。スポーツドリンクと林檎」
…話、通じてる…?
「?悪ぃ、わかんね」
だろうと思った。


最後は言葉の代わりに大きく頷いて、ドアを大きく開く。
どうぞ。
それだけは理解できたらしく、赤也は何故か小声で「おじゃまします」と囁いた。


「喉も痛くねーの?」
うん、と頷く。
言葉は通じないと諦めて、頷くか首を振るかで返事をすることにした。

「へえ、余計に不思議。あ、ちょっと試してみろよ」
いや、だから出ないって言ってるじゃない。

わからないことを承知で、そうぼやいてみる。
案の定赤也はわからない、という顔をするから、わたしは思わず笑ってしまった。



「…心配したんだっつの。風邪、ひいたなんて言うから」

赤也の拗ねたような声に、笑いが止まる。
なんだ、本当に心配して来てくれたんだ。

「お前、いっつも無理するし…また大丈夫とか言って、無理してんじゃねぇかって…」
…ごめん。


ぽつり、呟く。
声は出なかったけれど、口の動きで分かったらしい。
困ったような笑みを浮かべてわたしを抱きしめてくれたから。

「謝んなよ」
小さく、頷く。
「…なんかが素直すぎて気持ち悪ぃ。早く治せよ」
気持ち悪いって何だ、と思ったけれど、口には出さないでおこう。


体調悪くなると大変だから、と強制的にベッドに寝かされ。
添い寝してやろーか?なんて笑うもんだから、彼の頭を軽く叩いて横になる。

「ほら、手」
手?
疑問に思いながら差し出すと、赤也がその手を握ってくれた。



…なんだ、言葉にしなくても、わかってくれてたじゃない。
ちょっとだけ不安だった、この気持ち。
ありがとう、そして、



だいすき。




そう形作ったわたしの口を見て、赤也は真っ赤になって目をそらす。
「…早く寝ろよ」








やっぱりわたしは、言葉はさして大事じゃないと思うんだ。
だって、



本当に伝えたい時には、気持ちはちゃんと伝わると思うから。









伝えたい、キモチ。
    (信じてるよ、伝わるって)