「馬鹿だろい」
「う、うるさい」

わたしの前髪から滴る雨粒に呆れたように、
目の前の彼は小さくため息を吐いてタオルを放って寄越した。




   恋心




『台風26号は北に進路を変え…』

点いたままだったテレビから、アナウンサーの声が聞こえてきて
それを聞きながら、ブンちゃんはもう一度ため息を吐く。

「不要不急の外出は控えるようにってさっきから何回も言ってるんだけどさ」
「…はい、知ってます」
「んでもって、これから台風直撃なんだけど」
「それも知ってます」
「…お前、なにしてんの?」
「だ、だってさあ…!」


やむを得ない事情で外に出たはいいけれど、電車が止まるなんて思いもしませんでした。
確かに、吹き付ける風は強さを増して、窓に雨粒が叩きつけられる音も激しくなっている。


「しかも休校連絡見なかったんだろい?」
「メールさんが仕事してくれなかった」


学校に避難しようと思ったけれど、もちろん大学は台風直撃のために休校。
大学にもいられず、家にも帰れずで仕方なしにブンちゃんのとこに転がり込んだ訳です。


「いやー、ブンちゃんが家にいて助かった」
「普通に考えて家にいるしかねーよ。こんな状況じゃ出られねえし」
「デスヨネー…」


馬鹿だ馬鹿だと言いながらも、
タオルを貸してくれたり暖房を付けてくれたりするあたり、彼はなんだかんだ親切だ。


「しゃーねーな、風呂場貸してやっからシャワー浴びてこいよ」
「うう…神様仏様丸井様ー」

ばーか、と聞こえた声は、もういつものブンちゃんだった。






ザー…

雨音と同じ、鼓膜を震わせる音。
すべてを流すように、頭から熱いお湯を被る。

ちくり、傷んだ心に、わたしは気付かないふりをした。






「うあー温まった、ほんとにありがと」
「いいからお前は少し反省しろって」

暖房の前で干されていたらしいわたしの服は
びしょ濡れという最悪の状況からようやく脱出していて、わたしは安堵のため息を吐く。
手渡されたドライヤーの電源を入れるよりほんの少し早く、ブンちゃんが口を開いて。

「つーか、」
「んー?」

動かしかけた手を止めて、なに、と続きを促す。
けれども彼は少し迷った表情を見せただけで「…いや、なんでも」と口を閉じてしまった。

「言いかけて止めるなんてひどーい。気になる」
「気にすんじゃねーよ、早く髪乾かせ風邪ひくぞ」

手を動かさないわたしにしびれをきらしたらしく、ブンちゃんはわたしの手からドライヤーを奪い取ると
後ろに回り込んで電源を入れる。
ドライヤーが放つ強い風の音は、周りの音を全て掻き消して
数時間前から鳴り止まない頭の中の雨音も、止んだような錯覚に陥る。



「ブンちゃん」


小さく、口を動かす。
もちろんブンちゃんは聞こえなかったようで、手を止めることなくわたしの髪を乾かしていく。


「ブンちゃん、」


止まない音に、目を閉じる。
風の音で消される自分の声に、少しだけ安心した。


「別れたんだ、わたし」


思い出す、数時間前の雨音。
雨の酷くならないうちにと、帰り道を急いだけれど。
辿り着いた部屋には、恋人だった彼と、


「知らない女の子が、いてね」


響く嬌声と、ベッドの軋む音
立ち尽くすわたしに気付いて、彼が上げた声
全部、ぜんぶ


「雨なら、全部流してくれる気がして、」


その場から、逃げ出していた。
次第に激しくなる雨音に包まれていれば、何もかも忘れられそうな気がして。
ひたすらに、走って走って走って、


「気付いたら、ブンちゃんの家の前にいた」




ふわりとよく知った香りを近くに感じて、目を開く。
けれども目の前は真っ暗で、一瞬何が何だか分からなくなった。


「…ちょっと、何?」
「どうして」


耳元でブンちゃんの声がして、不意に風の音が止む。


「どうして、もっと早く呼ばなかったんだよ」
「え、」
「何かあったらすぐに呼べって、ずっと言ってただろい」

ブンちゃんがわたしの視界を奪っていたことには気付いたけれど、
それよりも、聞こえていないと思っていた言葉が、すべて筒抜けだったということの方がよっぽど重要で。

「ブンちゃ、」
「その場で呼んでくれたら、一発殴ってやれたのに」

怒ったような、それでいてどこか悲しそうな声が、鼓膜を震わせる。
わたしはすっかり動揺してしまって、彼の手から抜け出そうとした、が。



耳から首、そして肩口へと触れる感触に、動きが止まる。

ぶるり、身体が震えたのは、雨に打たれたからではない。

少しずつ近づいてくる雷の音が、びりびりと窓ガラスを揺らす音がして。


気が付いたら、硬い床を背中に感じていた。



「ぶ、ブンちゃん」

目を覆っていた手は、わたしの指先を絡め取って離さない。
その表情は、部屋の暗さでよく分からなかったけれど
見なくたって分かる。彼は、



(どうして)


一瞬、窓から入り込んだ稲光が、隠れていた顔を照らした。

(どうして、)


「どうして、ブンちゃんが泣くの」


ぱたり、落ちてきた雫は、わたしの頬に幾筋もの跡を付ける。
それはまるで優しい春の雨の様。
ブンちゃんはわたしの問いに答えず口を開いて、



「なあ、」
いい加減に気付けよ。


掠れた声で、誘いの言葉を紡ぐ。





それが、きっかけだったのかもしれない。








熱を伴った律動と、感じる甘い痛み。
意識を持っていかれそうな快楽の中で、辛うじて言葉を発する。


「ブンちゃ、」
「な、んだよ」
「わたし、ここで、生きてもいいの?」


それを聞いた彼は、小さく笑うとわたしの耳に口を寄せて。
囁かれた答えに、わたしはひどく満ち足りた気持ちで目を閉じた。






(ああ、例え戻れなくたって構わない)(呼び覚まされたこの恋心と生きていけるなら)