ぽつり、ぽつりと降り出した雨。
窓の外を見ながら、あたしは深く、ため息を吐いた。









   Rain








「降水確率90%。傘を忘れるなよ」

今朝部屋を出る時に、蓮二が言った言葉を思い出す。
…忘れたわけじゃない。降らないと思ったんだ。
通勤中は、陽が照って暑いほどだったんだから。

雨は強さを増して、窓に叩きつけるほどになっている。
もうひとつため息を吐いて、止めていた手を動かし始めた。



大学を卒業して、すぐに就職。
同時に、長く付き合ってきた彼氏と同棲を始めて。
…なんて、口に出してみれば、随分恵まれた生活に見える。

あたしだって、この生活を始めたばかりの頃には…
心の底から、幸せだと思っていた。


彼である柳蓮二は、土日祝完全休の一流企業。
対して、休みの不定期な小さい会社に就職したあたし。
…すれ違いが起こるのも、当然だった。

一緒にいられるはずの週末だって、休みは合わず。
たまに休みが合ったとしても、あたしは持ち帰った仕事をするか疲れて起きられないか。
そのうちに、蓮二はひとりで図書館に出かけるようになってしまって。
部屋の中で顔を合わせることが、極端に減っていった。


それだけでもきついのに、喧嘩も増えて。
激しい口論をしない代わりに全く言葉を交わさなくなるお決まりのパターンで
朝から静まり返った室内に、ぽつりと零れたらしい蓮二の呟き。



「降水確率90%。傘を忘れるなよ」


いつもの癖で零れたのだろうその言葉を、
ちらりと外を見ただけで信じず、傘を持たなかったあたし。


(…最近、駄目だなあ…)

思うようにならない毎日。
蓮二とだって、喧嘩をしたいわけじゃないのに。

考えれば考えるほど、増えるため息。
それがさらにネガティブな気分にさせる。
終業のベルが鳴っても、鬱々な感情が晴れることはなかった。



まっすぐ家に帰る気になれず、会社のロビーでひとり座り込む。
窓ガラス越しに見える水溜まりに連なる波紋は、鏡のような水面を揺らす。
もう何度目かわからないため息を吐いた時、その水溜まりに人影が映った。


(…え、)


スーツ姿の相手も自分を見つけたらしく、呆れたような表情で傘を掲げて見せる。
"だから言っただろう"
そう言いたげな蓮二の顔。

瞬間、もやもやとした感情が戻ってきて。



気が付いた時には、自分の傘を畳んでいる彼の脇を擦り抜けて走り出していた。


「…、!?」

あたしを呼ぶ声にも振り向かず。
打ち付ける雨粒も気にしないで、走る。



すれ違う人々は、みんながみんな傘を差している。
色とりどりの傘の間を駆け抜ければ、不審そうな顔で見送られた。
…雨に濡れてスーツが駄目になることなんて、気にもしなかった。
途中大きな水溜まりに足を突っ込んだけれど、それもお構いなしで。

ただひたすらに

何も考えず

何処かへ、向かっていた。






息を切らしようやく立ち止まったのは、懐かしい母校の近くの公園だった。

(ここ…)


思い出してみれば、ここは所謂"思い出の場所"じゃないか。
なぜここに来たのか、自分でもわからないけれど。

「…懐かしいなあ」

口に出して、思わず微笑んでしまう。
幼かったあたしたちが、そこのベンチで談笑しているような気がして。


…そうそう、蓮二はテニス部だった。
立海は強豪校だったから、土日も関係なく練習していたっけ。
休みの日にも一緒にいられない、どこにも出掛けられない代わりに
学校帰りの僅かな時間でさえも、肩を並べていたんだ。


(…あ、れ)



心を掠める、閃きによく似た感情。
それをしっかりと認識する前に、







暖かさが、あたしを包み込んだ。








「…どこに、行ったかと」


息を切らしているってことは、期待してもいいのかな。


「家かと思ったが、お前がいないような気がして、」


ぽたりぽたりと、彼の髪から滴る雨の雫に、そっと混ぜて。


「…探してくれたの?」
「…当たり前だ」


ひとつぶ、頬を伝ったそれは、誰にも気付かれることはなかった。

















今さら役に立たない傘は畳んでしまって、
あたしと蓮二は、肩を並べてまだ雨の残る道を歩く。

「…ねえ蓮二」
「なんだ?」
「……ごめんなさい」

頭を下げると、頭上から「…頼むから、謝らないでくれ」なんて情けない声が降ってきた。


「だって、」
「それならば、俺も謝らなくてはいけない。…お前が忙しいのをわかっていて、
一緒にいる時間を作ろうともしなかった」
すまなかった。

そう言って、蓮二も深々と頭を下げる。



歩道のど真ん中で、互いに頭を下げたまま、動かないふたり。
傍から見れば、奇妙なことこの上ない。


「…ふ、」
「くっ、」


笑いだしても、顔も上げず。
道路を走って行った車が撥ね上げた水が頭上から降り注いで、ようやく我に返る。


「つめたっ!」
「…今さら濡れてもどうということもないが、な」

笑みを浮かべたままの蓮二は、いつの間にか顔を上げていた。


「蓮二の負け」

彼に似てきた笑顔で、言ってやる。
すると彼は一瞬、何かを企んだような顔をして、





ちゅ


「お先に」





「…、えええええ!?」

あたしのおでこにキスをひとつ落として、走り出してしまったのでした。






Rain
     (Don't be nurbus!)










「ちょ!待ってよ蓮二!」
「家まで競争だ。ああ、それと」


数メートル先で、蓮二が立ち止まる。



「家に着いたら、覚悟をしておけよ?」

一瞬たりとも離れないからな。



ニヤリ、笑った顔は
さっき見た幻と変わらない、悪戯っ子の「蓮二くん」だった。